映画「PERFECT DAYS」の余韻

オーストラリア人の友だちが絶賛していた邦画「PERFECT DAYS」を観た。普段邦画はあまり観ないほうだが、役所広司の素晴らしい演技に感激、「なんか飲んで帰らない?」という友だちの誘いを断って余韻とともに帰ってきた。

そして、今日Apple TVですでに映画があったので購入してもう一度観た。

底辺に生きるひとの美化された日々

平山は公衆トイレ掃除夫だ。毎日公園などの公衆トイレを巡回し、神社の境内でサンドイッチを食べ、駅構内の居酒屋の片隅で酒を飲み、風呂屋に行き、寝る前に古本屋で買った文庫本を読む。単調な毎日のように見えて少しずつ違う世界が現れ、ほかの映画のようにビックリするような出来事も始まりと終わりの表示もない。

ただし、汚い部分、見ないほうが気分がいい部分、「何か」につながるべき部分は消されているので、その平山の世界は淡々としているようで、実はとても美しく憧れる要素が視聴者の胸をうつ。

超現代的な東京の公衆トイレと昭和の懐かしい東京と

平山は毎日決まった公衆トイレに出勤し、丁寧に隅々まで磨き上げ、それどころか鏡を使って見えない部分まで確認する。徹底した彼の掃除哲学は、もうひとりの若い掃除夫のいいかげんなそれと対比をなしている。

わたしは東京にいるときにほとんど公衆トイレというものを使ったことがない。どうしても外で使いたいときにはデパートなどのまあまあ清潔で大きなトイレに行く。だから、この映画の中の現代的で清潔で美しく設計された「公園のトイレ」は、今まで見たことがなかった。「PERFECT DAYS」を観た海外のひとたちは、皆そのトイレにまずびっくりするのではないだろうか。東京の公衆トイレはこんなに美しいのか、と。

そしてもうひとつ、それとは反対にまるで半世紀前の映像を見るような昭和の世界があった。古びた内装の木造アパート、古本屋、銭湯、駅構内の居酒屋、鬱蒼とした木々の庭を持つ神社と神主、カセットテープの古い音楽。どれも東京都心からはなくなりつつある世界がここでは「平山の世界」だ。だが、見上げればそこには墨田区の東京スカイツリーがそびえる。

平山はSpotifyも携帯電話も知らない。外の世界で何が起こっているかにも興味がない。テレビもラジオもない彼のアパートからは、彼がその閉じられた世界を選んだという事実だけが浮かび上がる。

完結を欠いた小さなエピソードたち

それでも彼の世界に飛び込んでくるささやかなエピソードがある。神社の境内でサンドイッチを食べる会社制服の若い女性、銭湯の休憩所で居眠りをする老人、野球中継が大音量で流れる駅の片隅で文句を言う男性、平山の車でカセット音楽を聴きながら涙する若い女性、スナックママの離婚した元夫、家出してきた姪、運転手のいる車で登場する妹(姪の母)。

一緒に観た友だちが映画館の出口でぼそりとこぼした。
「でもあんなにたくさんあったエピソードはどれも通り過ぎるだけで、詳細もその後もわからない」と。

こうしたエピソードも彼の世界も外の世界も「木漏れ日」も、すべてが「切り取られた象徴」としてのこの映画の本質だったし、その行間を読む必要もない。強いて言えば、行間さえ象徴的な映像で埋められているために、ハリウッド映画の起承転結に慣れた目には新鮮に映るか、または退屈に映るか、ひとによるのだろう。

役所広司の「顔」に涙する

小さなネタバレだが、映画の圧巻は最後の役所広司の「顔」だ。ニーナ・シモンの「Feeling good」が流れる中、映画の最後のほうに車を運転する役所広司の顔だけがずっと流れる。寡黙な彼がその「顔」だけで見せる、ささやかな日常生活の様々な感情だ。喜び、楽しみ、悲しみ、苦悩。気がついたら鼻の奥がじんとなり、泣いてしまったことに気づいた。

毎日の繰り返しの中でも起きる様々な小さな事。
そうなのだ、人生は毎日の繰り返しだが、そこにも小さな波が静かにたち、平山の大好きな「木漏れ日」のように日常の間から降りかかるのだった。静寂の中でゆれる葉の間から小さな空がちらちらと見える。だが、その葉を茂らせる木の全体を想像させはしない。

「顔」だけの映像は、平山の閉塞された世界が外界と接触する瞬間、木漏れ日のような変化を次々と見せていくだけだった。

余談:百年近くLeedervilleにある映画館 Luna Palace

この映画を上演していた映画館は街のトレンディなスポットにあるが、とんでもなく古い。1927年から営業している映画館で裏には野外シネマがふたつ、そして古い館内には床がギシギシいう小さな劇場が6つある。チェーンではなく独立した映画館で、インディーでマイナーな外国映画や古い映画などを上演している。だから今回の「PERFECT DAYS」もハリウッドの華やかな映画ではなく、日本からきた小さな映画と言ってもいい。

ポップコーンやドリンク類を売る小さな売店ではチケットも販売していて、若いスタッフが1人で対応している。…と思ったら、ひとつの劇場で上演が終わるとゴミ袋を持って客席を回り、それが終わると次の上演用にドアを開けるという仕事もあるらしい。わたしが行ったのは夕方の4時の上演だった。2階の踊り場横にはフィルム室があり、ドアが開いていたので中を見ることができた。ここにもたった1人の映像技師のみ。その踊り場を横目で見ながら通りすぎると、Cinema 2と書かれたドアに突き当たる。中はこんな感じで客席は100席ほど。もっと小さい50席に満たない劇場もあるけれど、今回はもう少し広かった。
そして、もっと大きなチェーンの映画館では10分以上にもなる広告映像がほとんどない。5分ぐらいか。そしてすぐに映画が始まったが、その前にぐるりと見渡してみると…

誰もいない。わたしたちふたりだけ。
時間が早いからというのもあるが、こんなふうで劇場としてやっていけるのかと不安になるほどスッカラカンだ。ただし映画が終わって劇場の外に出たら、かなりたくさんのひとが映画が始まるのを待ったりチケットを買ったりしていたから、たぶん夜は繁華街ということもあってこの映画館のいくつかの劇場では満席になることもあるのだろう。

以前ここで観た映画は「Drive My Car」で、やはり午後の部は友だちとふたりだけ。席が50人以下のもっと狭い劇場だったが、映画館で貸し切り状態というのは初めてでびっくりしたのを覚えている。

シートも今流行りのリクライニングになるものではなく直角だし、飾り気のないシンプルな劇場ばかりだ。それでも人が集まるのは、ハリウッドの華やかな映画ばかりの巨大な映画館ではなく、もっと小さくても良質な外国映画を観たいと思うひとたちが多いということなのだと思う。

また行きたい。

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