最後に、学校を去る日

今日2023年12月15日に、教職から引退した。
正式には1月27日に西オーストラリア州の夏休みが終わる日まで名前も収入も残るけれど、今日鍵もネームバッジも返して学校を去ることになった。以前もここで書いたとおり、もう半年以上考えていたこと。学校に伝えたのは3ヶ月前だけれど。

ビジネスキャリアから転職して住所もバンコクからパースに変わり、免許を取得してから22年の教員生活だった。現在の学校で教えていたのはその最後の3年のみで全てオンライン授業だったので、生徒たちとの関係も以前の対面校とは変わって最初はとまどいのほうが多かった。が、授業時間は大幅に短縮されたオンライン授業ではあったけれど、生徒たちはよくついてきてくれたし、最後には温かい感謝のメールを沢山もらって去ることができた。

わたしはこの22年間で3回それぞれの学校を去っている。最初は2005年、次に2020年、そして最後になったのが2023年の現在の学校だ。もう学校で定期的に生徒たちを教えることはないと思う。

実は、日本語を教えることに関してはまだ未練がある。22年間辛いこともあったし、頭をかきむしりたいほど忙しいときもあった。それでも、新しい教材を作ったり、意味がわかったときの生徒たちのぱっと輝く顔を見たり、できない子たちの世話をしたり、問題のある子の保護者と何度も面談をしたり、卒業して何年もたっているのに同窓会に呼んでもらったり、楽しく思い出せることのほうが多い。それだけ教えることが大好きだった。

「それなのに、なぜ辞めるの?」と何度も訊かれる。

年齢のこともあるけれど、やはり25年も前の父の死がよみがえる。あのとき、わたしは教師になることを決心したのだった。

ビジネスではキャリアを順調に積んではいたけれど、なぜか満たされない。その満たされない思いは、ビジネス研修のワークショップを開いたときにわかった。わたしは人に「教える」という行為が大好きなのだ。自分の知識と経験を人に伝えてそれを喜んでもらえること、そして下調べや準備の忙しさよりも終わったときの満足感と達成感。

父は何十年も家族のために働き続け、退職してからは大学に戻りたいとの夢を捨てずに「まずは半年の講習コース」と日本の歴史を大学で学び始めた。そしてその矢先にがんが発覚したのだ。半年もせずに亡くなったとき、たぶんずっと心に温めていたであろう歴史勉強の一念がたった数ヶ月で死とともに消えてしまったことに涙した。そしてそのときに決心したのだ。教師になろう、と。すでに40歳を過ぎていたので、日本に戻って教員免許を取得するのは不可能だ。そして、可能性としてあがったのが英語を使って好きな日本語を教えられるオーストラリアだった。友だちもいる。40を過ぎて免許をとるひとたちも多い。そんなわけで、わたしは43歳にして学生に戻り、オーストラリアでの生活を始めたのだった。

そして、今教師の仕事から引退するのは、父が退職後に日本の歴史の勉強を始めたように、何か新しいことを始めたいからだ。収入のためでもなく、キャリアのためでもなく、「今まで教えることの喜びを見つけたように」何かを楽しんでみたい。それは、ブログを書くことかもしれない。夜を徹して読みたい本を眠くなるまで読むことかもしれない。ジグゾーパズルを1週間で完成させることかもしれない。ボランティアを探すことかもしれない。後進の教師たちのために新しく教材を作ることかもしれない。または、ずっと長いことできなかった旅行らしい旅行をデラシネとして再開するかもしれない。

限りある人生だからこそ、やりたかったことをゆっくりと考え、そして少しずつ前進していきたいと思う。

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