書く

しばらく「書く」という行為から離れていると、最初どう始めたらいいのか躊躇する。

いや、全く書いていないというわけではなく、MastodonというSNSの刹那的な呟きや撮った写真に寄せたInstagramの小さなコメントなどは長期に渡って続けているし、仕事ではもちろん長いメールや書類なども書く。それでも、「ちょっと長く、そしてただ書く」のは自分の中でもやもやと渦巻いている考えに言葉を与えることであり、外に向かって絶えず動き続ける自分の内側に刺激をも与えることであると思っている。

がびのテラス」の更新は、16年間勤めた私立女子校を辞めた2000年12月からストップしている。ちょうど3年前のことだ。

その前、1999年の夏休み12月から2000年1月にかけて日本に一時帰国をし、妹と相談して母を施設に送り、帰ったとたんに自宅のあるオーストラリア・パースがコロナのためロックダウンとなった。そして、わたしが戻ってから3ヶ月もたたないうちに、日本では母が急性大動脈解離で病院に運ばれ、手術のかいもなく、そして目覚めることもなく急逝した。

妹からの知らせを受けて急遽フライトを探したが、すでにコロナ禍のせいでパースからはシドニーへの便しかなかった。そしてそこからなんとアラブ首長国連邦のドバイで乗り換えて成田へ、というコースだ。もちろん2日がかりの長い旅だし料金もとんでもない額。それどころか出国のための書類手続きもすぐにはできず、結局母の様態を鑑みるにとても間に合いそうもなかった。日本でもすでにコロナ蔓延で人を呼んで通夜や葬式をできる状態ではなく、骨になった母を数人の家族・親戚だけで済ませる簡単な家族葬にし、先祖代々の墓の下、父の隣に眠ってもらうこととなった。母が施設に入ってからたった3ヶ月、あっと言う間の出来事だった。

わたしは当時パースでは外に出ることもできず、オンライン授業以外は本を読んだり映画を観たりというまさに時間つぶしの日々を送っていた。SNSはどうにか続いてはいたものの、そのほかは何も書いていない。note.com にはちょっと長めの書き散らしを移したが、新しいものは何ひとつない。

段々とコロナの恐怖も収まり、死者数も少なくなったころ、妹弟と相談して実家を売却した。母がいなくなってから誰も住んでいなかった家だが、わたしたちが生まれ育った60年以上の間修繕を重ねながら立っていた木造家屋だ。わたしが「日本」というとき、それはこの東京の実家を指していて、何十年も続いている海外住まいの「日本」と唯一の繋がりを確かめられる場所だった。今でも細部まではっきりと思い出すことができるが、すでに三階建ての大きな新築アパートとなってしまったわたしの「日本」だ。

4月に4年後の日本に一時帰国する予定だが、どれだけ変わってしまったことだろう。4年も日本に帰っていないのは初めてなのだ。
実家から徒歩5分と離れていない妹のマンションに滞在するが、生まれたときからずっとその近辺に住んでいる妹と何十年も海外住まいの姉の土地と実家に対する感情は全く違っていると思う。ほとんど毎日Facetimeでおしゃべりをしている妹だが、あまりにも環境が離れてしまって、返って気持ちの上では近くなったのかもしれない。

そんなわけで、別に起承転結もないし、誰かに向けて書くということでもない。不定期で突然また何年も沈黙してしまうこともあるだろう。

それでも今「なぜ書くか」というと…たぶん、もう少し年をとって指を動かしてキーを叩くのも考えるのもおっくうになったときに、読み返して自分の人生をもう一度文字の上でたどるのも愉しいのではないかと思うからだ。そのために、わたしはもうすこし書きためておきたいのだよ。

(注:なんで左手でペンを握っているんだと思ったアナタ、そうです、わたしは10人のうち3人はいるという世にも不思議な左利きという存在なのです。)

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